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皇后エリザベート⑥ マイヤーリンク事件

1872年5月27日早朝、大公妃ゾフィーが67歳で亡くなります。
肺炎でした。

これを機に
エリザベートが公務に精を出してくれるのではないか
そういう期待の声もありましたが
エリザベートはますます宮廷に背を向け
現実逃避していきます。

1873年4月、次女ギーゼラが17歳で結婚します。
夫はバイエルン公レオポルト

同じ年の5月から
ウィーンで万国博覧会が開催され、
各国元首がウィーンへやってきます。
(日本からは岩倉具視)
最初の3ヵ月ほどは公務に励んでいたエリザベートですが
7月末あたりから体調不良となり
バート・イシュルやブダペストのゲデレー城へ逃避…

万国博覧会は11月に終了しますが
バブル崩壊やコレラ発生などで
赤字をもたらしました。

12月には、皇位即位25周年記念の行事が続きます。
祝賀パレードでは
皇帝と皇太子ルドルフは無蓋馬車(今でいうオープンカー)で歓声に応えますが
エリザベートは屋根付き馬車で
窓を閉ざしたまま通過していきました。

その後、エリザベートは、ゲデレー城で乗馬三昧です。

1874年7月末からは
6歳になった末娘マリー・ヴァレリーを連れて
イギリスのワイト島を訪れます。
この島はイギリスのリゾート地で
ヴィクトリア女王の避暑地でもあります。
ちょうどエリザベートがやってきたときには
女王もオズボーン城に滞在中で
女王はオーストリア皇妃エリザベートの元を訪ねています。
ところが、女王が城へ招待すると
エリザベートはこれを断ってしまいます。
ヴィクトリア女王は
「皇妃の役割を果たせないという噂は本当だった」と気を悪くしたようです。

その後、エリザベートはロンドンを訪問
ヴィクトリア女王を訪問するようにと夫に言われたエリザベートですが
従いません。

ロンドンで過ごした後
ノッティンガムの郊外で鹿狩りに興じます。
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ノッティンガムは
あの伝説のロビン・フッドの活躍の場シャーウッドの森があるところです。
馬に乗っての鹿狩りがすっかり気に入ったエリザベートは
夫に手紙を書き、
ここに来て一緒に狩猟をしましょうと誘いますが
もちろん、公務に忙しい皇帝がOKするはずはありません。

1875年には
今度はフランスのノルマンディーへ
ここでも乗馬に夢中になりますが
農地に入り込んで田畑を踏み荒らすなど
住民たちとの間でトラブルが絶えませんでした。

1876年には再びイギリスへ行き、
馬術家ベイ・ミドルトンから障害物競争の手ほどきを受けます。
1日数時間の練習をこなし、
ヨーロッパ屈指の女性騎手となるエリザベート

1877年もイギリスで乗馬です。
ベイ・ミドルトンとのロマンスが噂され、
ウィーンでの評判はがた落ち…

1879年から1881年はアイルランドへ向かいます。
目標は乗馬🐴🐴🐴…🐴
アイルランドは反英感情のある国です。
そこを訪問することはイギリスの不興をかうということで
皇帝は反対しますが
やはり指示には従わず強行…
案の定、ヴィクトリア女王から反感をかってしまいます。

1882年になると
再びイギリスを訪問しますが
ベイ・ミドルトンは婚約し、
エリザベートのエスコート係を降りていました。
それに加えて、坐骨神経痛が悪化していました。
突然、乗馬熱が冷めるエリザベート…
熱しやすく冷めやすいですね。

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さて、エリザベートが乗馬に夢中になっている間に
皇太子ルドルフに結婚話が持ち上がります。
相手は、ベルギー王女シュテファニー
皇帝の弟、メキシコで処刑されたマクシミリアンの妻の姪にあたります。
(前の記事を参照してください)

実はエリザベートは
この義弟の妻が大嫌いでした。
その姪だからだったのか、
それともまだ若すぎると思ったのか
結婚には反対します。

でも、このころ、
ルドルフ皇太子と釣り合う身分で
しかも年齢的にも合うという相手はいませんでした。

結局、1881年、皇太子ルドルフとシュテファニーは結婚

ルドルフは23歳、シュテファニーは17歳になる直前でした。
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1883年には長女が誕生していますが
夫婦の関係は悪化していました。
ルドルフは、
嫉妬深くてエレガントさに欠ける妻に失望していたのです。

エリザベートも
この嫁に対して、ネチネチと口うるさかったようです。

結婚前から、貴族専門の娼婦や女優と遊んでいたルドルフですが
また女性関係が派手になります。

ルドルフお気に入りの愛人は
女優のミッツィ・カスパルでした。

さらに、1888年には、17歳の男爵令嬢マリー・ヴェッツェラと知り合い、
二人は愛人関係になります。

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ルドルフは
ローマ教皇に、妻と離婚したい旨書簡を送りますが、
そのことが皇帝の知るところとなり
父親の怒りをかいます。

さらにルドルフは
父との関係にも問題を抱えていました。
民族の独立運動を抑え
大国の威厳を保とうとする父と
貴族批判をし、過激派や革新派と交流し
自由主義を唱える息子…

父子の溝は深まる一方だし
外国にばかり行っている母とは理解し合えない…

ルドルフは何もできない自分の立場を悲観し、
しだいにノイローゼ状態になっていきます。

1889年1月26日
父と子は激しい口論となります。
ルドルフはドイツ帝国宰相ビスマルクに不信感を持っていました。
そして、フランスとロシアとの同盟構想を持っていることを
新聞に実名で報道されてしまい、
ドイツ寄りの皇帝が激怒したのです。

皇帝は
「このままでは皇位継承にはふさわしくない」とまで…

1月28日夜、ルドルフはお気に入りの愛人ミッツイ・カスパルの元を訪ねます。
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彼女は女優ですが、おそらくは娼婦だったと言われています。
彼は夜中の3時ごろまでミッツィと過ごし、帰っていきました。

翌29日、ルドルフはマリー・ヴェッツェラとともに
馬車で、狩猟用の館マイヤーリンクに向かいます。

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ここには、友人も招待されていましたが
彼らは、マリーが館内にいることを知りませんでした。

30日早朝、ルドルフの部屋から2発の銃声が響きます。
執事が駆けつけると、部屋には鍵がかけられていました。
ドアを破って中に入ると
血まみれの二人が…
ルドルフがマリーを拳銃で撃ち
その後、自らの頭を撃って自殺したのです…

…と言われていますが…

1983年3月
ハプスブルク家最後の皇后ツィタが
マイヤーリンクの事件について、「暗殺」であったと新聞に告白しました。

❶皇太子の葬儀許可をローマ教皇に打電したところ、拒否された。カトリックでは自殺の場合は葬儀できない。
 しかし、暗号で2度目に打電したところ、すぐに許可がおりた。

❷マイヤーリンクの関係者による証言。
 室内の片づけに入ると、室内に争ったような痕跡があり、壁にも血痕や銃痕があった。
 銃声は2度ではなかった。

❸現場に駆け付けた関係者の証言では、皇太子の右手は切断されていた。

❹遺体の手袋をはめた手をとると、なにか詰め物をしているような感じだったという証言がある。

など、不審な点はありますが、
とにかく、情死ということで落ち着いているようです。

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エリザベートは
マイヤーリンク事件の3年前に
互いに良き理解者であった従弟バイエルン国王ルードヴィヒ2世を亡くし
3か月前には父のマクシミリアン公を亡くし、

事件の翌年には
友人アンドラーシ伯爵
そして、姉のヘレーネ、母のルドヴィカと続けて失います。

エリザベートは
自らの死を願うようになっていきます。

こうして
派手な衣装や装飾品は侍女たちに分け与え
自分は喪服ー黒のドレス・小物ーで過ごすようになりました。


つづく


by lotuschar | 2019-10-19 23:15 | 皇后エリザベート | Comments(0)

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