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テューダー朝① ばら戦争

イギリス王室でもっともドラマティックで、恐ろしくて、おもしろいと時代の一つは、
テューダー朝”The Tudors”(1485年~1603年)ではないかと思います。

というわけで、今回からこの王朝について書いてみたいと思います。

物語は、テューダー朝が始まる少し前
1422年9月1日から

この日、英国王ヘンリー5世(ランカスター家)が亡くなり、
わずか生後9か月のヘンリー6世が即位しました。

当時、イングランドとフランスの間には、トロワ条約が結ばれておりました。
1420年に調印されたこの条約、簡単に言うと、
フランス国王シャルル6世の死後は、
イングランド国王ヘンリー5世がその後継者になると決められたものです。

そのヘンリー5世が死亡し、
同じ年の10月にはシャルル6世が亡くなります。

こうして、赤ん坊のヘンリー6世は、
「フランス王およびイングランド王」となったわけです。

ところが、シャルル6世の息子である王太子シャルルも黙ってはおりません。
当然抵抗します。

この時に活躍したのが
有名なジャンヌ・ダルク(Joan of Arc)です。

結局、ヘンリー6世の統治時代に
フランスにおけるイングランド領土の大半を失ってしまいます。

ヘンリー6世という王様はたいへん穏やかな性格で
華美を嫌っていたと言われています。

また、反虐罪に対する死刑にさえも消極的で
宗教心にも厚かったとされています。

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生後9か月で国王になったので、
叔父であるベッドフォード公が護国卿(国王に匹敵する最高統治権を持つ官職)をつとめていました。

その後も、摂政の座を巡って身内同士が争い、
さらにフランスとの関係を巡って
和平派のサマセット公エドムンド・ボーフォート
主戦派のヨーク公リチャード・プランタジネットが争い
イングランド全土で貴族同士の戦争が起こるようになります。
         
かわいそうな、心優しいヘンリー6世…
1445年に結婚した妻のマーガレット・オブ・アンジュー(フランス)は、国王とは正反対の気性でした。

かわいそうな国王は、1453年、重大な神経衰弱に陥ります。

勝気な王妃マーガレットは、自らが摂政になると主張しますが、枢密院は、ヨーク公リチャード・プランタジネットを護国卿に任命します。
(政敵サマセット公エドムンド・ボーフォートはロンドン塔に収監)

ヨーク公リチャード・プランタジネットは、プランタジネット朝のイングランド王エドワード3世(在位1327-1377)の流れを引く王室の一員です。

1455年1月、ヘンリー6世は国政に戻ってきます。

すると、ヨーク公リチャード・プランタジネットは護国卿を解任され、サマセット公エドムンド・ボーフォートが政界に復帰します。

サマセット公は、王妃側と言われていましたから、強い王妃が、国王をつついたのでしょうか…

こうして、プランタジネット王家の流れを汲むヨーク家とランカスター家の戦争が始まります。

薔薇戦争ーWars of the Roses-です。

薔薇戦争と呼ばれるのは、ヨーク家のHeraldic badge(記章)が白薔薇で、ランカスター家の記章が赤薔薇だったからです。

戦争といっても大がかりなお家騒動のようなものですね。

1455年5月

ヘンリー6世
マーガレット王妃
サマセット公エドムンド・ボーフォート
ノーサンバーランド伯ヘンリー・パーシー
ら、ランカスター派は、

ヨーク公リチャード・プランタジネット
ソールズベリー伯リチャード・ネヴィル
ウォーリック伯リチャード・ネヴィル(ソールズベリー伯の長男)
らのヨーク派と、

ロンドン北方のセント・オールバンズで衝突します。

結果は、ランカスター派の敗北…

10月、国王が精神錯乱で執務不能なため
枢密院は再び、ヨーク公リチャード・プランタジネットを護国卿に任命。

しかし、1456年2月にはヘンリー6世が回復し、ヨーク公は、またも護国卿を解任され、戦死したサマセット公の息子であるサマセット公ヘンリー・ボーフォートが、台頭してきます。

再び、ランカスター派が優勢です。

ヨーク公リチャード・プランタジネットは、自らの拠点ラドロー城にネヴィル一族を集結させます。

ラドロー城は、イングランド南部のシュロプシャーのラドローにあるお城ですが、今はもう廃墟になっています。

「ラピュタ」を想像させるようなところです。
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ソールズベリー伯や、その息子ウォーリック伯(後にキング・メーカーと呼ばれるようになる人物)など国外の拠点に散っていた貴族たちも続々集結し、1460年7月、ロンドン市街のほとんどを制圧しました。

ヘンリー6世は再びヨーク派の手中に。

このとき、ヨーク公リチャード・プランタジネットは自らが国王になろうとしますが、これはうまくいきませんでした。

それでもヨーク公はあきらめず、クラレンス公ライオネルの子孫であることを理由に、より優位の王位継承権を持っていると主張。

クラレンス公ライオネルというのはエドワード3世の息子で、ランカスター家ヨーク家両家の兄にあたります。

結局、議会は妥協案として合意令を発令し、ヨーク公リチャード・プランタジネットは、ヘンリー6世の王位継承者と認められ、ヘンリー6世の息子であるエドワード王子の継承権は排除されてしまいました。

ランカスター派は黙っているわけにはいきません。
国王はヨーク派の手中にありましたが、王妃マーガレットは挙兵し、ウェイクフィールドで戦闘状態に入ると、勝利します。

この戦いで、ヨーク公リチャード・プランタジネット
第2子であるラットランド伯エドムンド・プランタジネットや、ソールズベリー伯リチャード・ネヴィルとともに処刑されます。

3人の頭部は、
ヨーク(市)の城門ミックルゲート・バー(Micklegate Bar)に晒されました。

王妃マーガレットは、ヨーク公の頭に紙の王冠をかぶせるよう命じたと言われています。

後の時代、シェイクスピアは、戯曲『ヘンリー6世』の中で、マーガレット王妃を”フランスの雌狼”と呼んでいます。

ヨーク公リチャード・プランタジネットが戦死しても、ヨーク派はあきらめませんでした。

ヨーク派には、ヨーク公の長男で、殺されたエドムンドの兄である、18歳のマーチ伯エドワードがいました。

エドワードは、ウェールズ地方のヨーク派の軍勢をまとめあげ、1461年2月、モーティマーズ・クロスでの戦いで、オウエンとジャスパー・テューダー父子らが率いるランカスター軍を破ります。

この戦いの前、エドワードは、偶然現れた幻日現象による3つの太陽を殺されたヨーク公リチャードの生き残った3人の息子、エドワード自身と二人の弟(ジョージリチャード)の具現であるとし、これは勝利の前触れであるとして、兵士を鼓舞したと言われています。

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この末の弟リチャードが後のリチャード3世です。

一方のランカスター軍も、再度戦地となったセント・オールバンズでの戦いでヨーク軍を打ち負かし、ヘンリー6世を奪還します。

国王を取り戻した王妃たちランカスター軍ですが、それまで、兵士たちによる略奪行為を見て見ぬふりをしていたため、ロンドンの市民たちによって門を閉ざされ、ロンドン入りできないという事態に陥ります。
仕方なく、ロンドンの北約50キロのダンスタブルに撤退・・・

一方、父の跡を継いでヨーク公となったエドワードらのヨーク軍は、ロンドンへと軍を進め、1461年2月27日、ロンドン市民の熱狂的歓迎を受けて、ロンドン入城。
「合意令に基づく正当な王位継承者であるヨーク公リチャード・プランタジネット殺害を許したヘンリー6世は、もはや王位を維持する権利を喪失した」と主張します。

1461年3月4日、ヨーク公エドワードはついに王位につき、エドワード4世となりました。

その後も戦闘は続き、3月29日には、薔薇戦争最大の戦いとなったタウトンの戦いが行われます。

ここで、ヨーク軍は快勝し、元国王ヘンリー6世王妃、そしてエドワード元王子は、スコットランドへ逃亡します。

このとき、ヨーク家の新国王エドワード4世は、19歳という若き国王。
末の弟リチャードは、9歳でした。


<参照>
War of the Roses(BBC)
The Kings & Queens of England
Wiki その他

by lotuschar | 2019-03-16 14:54 | 英国史テューダー朝

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